2021年10月17日の説教要旨

2021年10月17日
第三主日礼拝
説教「ひとり子の神」
ヨハネの福音書1章14-18節

ことばは人となって

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(14)。この「ことば」は主イエス。天地創造を担われたまことの神が、人となって私たちのところに来られたのです。人となることには覚悟が必要です。人は死にます。十字架の上で死ぬことさえも、覚悟のうえで神は人となりました。そんなにしてでも私たちのところに来ることを望んでくださったのでした。

なぜなら「私たちはこの方の栄光を見た」(14)、これを神が望んだから。旧約聖書を通して、人間は神の栄光、すなわち神を見ることはできない、それを見たら罪ある存在である人間は死んでしまう、そう語られています。「いまだかつて神を見た者はいない。」(18)のです。神は本来見ることができないお方です。だから「父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(18)とあるように、主イエスが来てくださいました。説き明かすというのは、単に言葉で説明したのではありません。主イエスにおいて人間が神を知り、神のお姿を実際に見ることができたのでした。私たちにご自分を見させ、触らせ、愛し合わせ、神と共にいきることができるようにと、神が望んでくださったのでした。

けれどもそれは当時の弟子たちだけに起こったことではありません。私たちにも起こっています。それが教会です。神さまは私たちに会わずに満足なさることができないお方。ですから、主イエスの体である教会を与えてくださいました。私たちと会うことを神さまは望んでおられます。この礼拝は神が望まれた礼拝です。いま、ここで神が私たちに会ってくださっているのです。そして、神は私たちと共に生きることを望んでおられます。礼拝が終わると、神は私たちと共に、それぞれの場所に出て行ってくださるのです。なぜなら教会は建物ではなく、主イエスと結び合わされた者たちの群れだからです。

恵みとまこと

律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(17)とあります。主イエスが人となってくださったので「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」(18)のです。その恵みとまことは、モーセによって与えられた律法の実現です。律法は神と共に歩く歩き方を教えるもの。けれどもイスラエルはそんな歩みに失敗し続けてきました。しかし、いま、主イエスが来られました。恵みとまことをたずさえて。その「恵み」は大きな恵み。神が人となって私たちに会い、私たちと共にいてくださることを望んで、実行してくださったのです。その「まこと」はさらに驚くべきまこと。人となった神が私たちの罪のために十字架に架かってくださったのでした。

私たちの罪。私たちは愛し合いたいと願いつつも、愛を循環させることができないで、苦しみます。率直に語り合い、悔い改め合い、赦し合い、慰め合う循環がどこかで遮られてしまって悲しむのです。たがいを信頼して心を開くことができない恐れが原因であることが多いようです。そうやって立ち尽くす私たちの間に、主イエスが立っています。そして私たちの恐れも歪みも痛みも、そのすべてを十字架で担い、十字架で処分してくださったことを思い出させてくださるのです。

【聖霊によって】

主イエスの恵みとまことは、あまりに私たちの深く、せんさいな部分に届くできごとであるために、表現することも、腑に落ちることも、なかなか時間がかかることもあります。けれども、私たちはみな、どこかでそんな恵みとまことに触れたひとりひとりです。それは理解して納得したからというよりは、聖霊によって知らされたのでした。聖霊は今も私たちに、恵みとまことをさらに満ちさせ、さらに豊かに注いでいます。

私たちは工事中です。まだ完成してはいませんから、しばしば罪、すなわち愛の循環が遮られることを経験します。けれどもこの工事は、世界の回復のための工事。破壊のための工事ではなく、やがて完成する工事です。工事中というとサクラダ・ファミリア教会をイメージする方も多いでしょう。すでに130年も工事中ですが、コロナでさらに遅れているようです。それでもこの傑作はやがて完成します。工事中の私たちも主語である神さまが、愛を動機として、心を開く私たちを通してますます愛する者へと日々変えてくださっています。そんな私たちを通して世界を変えてくださっているのです。