2022年1月23日の説教要旨

2022年1月23日
第四主日礼拝 説教
「まことの礼拝の神」
ヨハネの福音書4章16-30節

今週も引き続きスカルの井戸に現れた主イエスの恵みを聴きます。主イエスは、サマリアの女にご自分から近づき、女はだんだん目が開かれて「その水を私に下さい。」というまでになりました。

【心を知る神】

けれども主イエスは「さあ、飲むがよい」ではなく、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(16)と意外なことを訊かれました。もちろん女の答を知っておられて、のことです。女には「夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではない」(18)のです。これが真昼に女が、人目を避けて水を汲みに来ていた理由でした。この時代のことです。女はふしだらな人として軽蔑され、人から口もきいてもらえなかったのでしょう。

しかし主イエスはそんな女の人生のみならず、心をご存じでした。ある牧師がこの女の心をこう推測しています。「五人も夫をとりかえて、なおも真実の愛を見つけ得ず、仮の夫と同棲している人間。人を愛そうとし、人に愛されたいと願いつつ、果さずして、真実の愛を求めると言えば聞こえがよいが、その美名の下での男性遍歴の結果、愛することにも愛されることにも期待は失われ、身も心もボロボロになってしまった人間、恐らくは、他者の愛に依存し、他者の愛を受けようとはしても、自分では与えようとはしたことのない人間。真剣に愛し愛されることについては、もはや無資格・無能力と自他ともに決めこんでいた人間。他から遮断されたことをよいことにして、自分を愛し、自分が愛されることにのみ、つまり自分の生活にのみかまけていた人間」と。なかなか厳しいです。けれども、この女がボロボロになってしまったのにも原因があったはずです。その結果、いろいろな男と結婚してみるのですが「これはちがう」「これも私の求めるものではない」「この生活ではない」と、のたうちまわるようにして生きてきたのでした。愛を求めながら、愛の関係をつくりあげることができなかったのです。日常のいろいろな局面で愛を貫くことができない私たちもまた感じるところがあるのではないでしょうか。

ところが主イエスはこの女の心をご存じでした。その渇きを、傷を、痛みを、闇をご存じでした。主イエスが「夫を呼んで来なさい」と言ったのは、女を責めるためではありません。彼女の闇を明るみに出すことによって、渇きを、傷を、痛みをいやすためでした。彼女重荷から解放し、新しいのちを注いで、愛に生きる人にするためでした。主イエスは、そのために人となり、十字架に架けられた神だからです。主イエスは私たちもいやしてくださるのです。

【御霊と真理による礼拝】

このときの女の反応はとうとつです。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。」(19)。続く「私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」(20)は、さらにとうとつに思えます。

「この山」とはゲリジム山。スシカルの町はその近くにありました。二王国分裂時代、南王国ユダは、エルサレムこそが礼拝すべき場所であると主張していました。それに対してエルサレムを失った北王国イスラエルの人びとは、ゲリジム山に聖所を築き、そこを礼拝の場と定めました。その北王国がアッシリアによって滅ぼされた後、アッシリアによってこの地に移住させられて来た諸民族と北王国のイスラエルの人びとが混じり合って生まれたのがサマリア人です。彼らも、先祖に従ってゲリジム山において主なる神を礼拝していました。ユダヤ人とサマリア人の対立の一つの要因は、礼拝すべき場所はエルサレムか、ゲリジム山か、ということにあったのです。

女は、自分の痛みを言い当てたお方を、神からの預言者だと感じました。このとき、長い間忘れていた、心の叫びが沸き上がってきたのでしょう。「神よ、私を救ってください。私を満たし、私にほんとうの愛の関係をつくりあげてください。」不思議なことに神にはできる、と女は感じました。そして「今、神を礼拝したい。神との交わりを、今、回復したい。どのように礼拝したらいいでしょうか。」と問うたのでした。

幸いなことに、主イエスは単なる預言者ではありませんでした。神です。「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。」(23)とあります。主イエスは「もはやユダヤ人もサマリア人も問題ではない。エルサレムもゲリジム山も。すべての人が、御子であるわたし、主イエスを通して礼拝をささげることができる、その時が来た。今、ここで神を礼拝せよ」と宣言されたのでした。「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(24)は私たちに新しい重荷を負わせるものではありません。まことの礼拝を成り立たせるためには、私たちが自分の心を整え、悪い思いを捨て去り、心の波風を自分で静めなければならない、ということではないのです。すでに神が御霊を送ってくださっています。真理とは主イエスです。御霊によって、主イエスとその父なる神を礼拝している私たちは、今、ここで御霊と真理による礼拝を献げているのです。

【サマリアの女、その後】

女は水がめを放り出して町へ行きました。そして「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」(29)と語りました。「私のかかえている罪の闇を、愛への渇きを、全てお見通しの方が、私に出会ってくださり、生きた水、渇くことのない水を与えて下さいました。イエスがその生きた水です。その方のところにあなたも来てほしい、あなたにもその方と出会ってほしい、そのために私と一緒に来てください」と。

女のその後については、想像するしかありません。けれども私たちおたがいを見れば見当がつきます。女は主イエスという生ける水、いのちの水を飲み続けたことでしょう。主イエスとの交わりによって、満たされ、いやされ続けるほどに、ほかの人との愛の関係をつくり上げていったことでしょう。自分が神に愛され、赦されたゆえに、他の人びとに心を開くことで。自分が神に愛され、赦されたように、他の人を愛し、赦すことで。