2022年2月6日も説教要旨

2022年2月6日第一主日合同聖餐総会礼拝
説教「救い主である神」
ヨハネの福音書4章39-42節

スカルの井戸に現れた主イエスの恵みの四回目、今日が締めくくりになります。このようにていねいに読んできましたのも、このサマリアの女性には主イエスの驚くべき恵みが現れているからです。その恵みはまさに今、私たちのうちに現れているものと同じです。

【証言する教会】

ヨハネの福音書が書かれた目的は、この福音書の最後のところに記されています。「これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」(21:24-25)がそれです。つまり、ヨハネの福音書はイエスが行われたあがないのわざを証しする(証言する)ために書かれたのです。その証言によって世界が救われるために。

この証しと同じ言葉が、サマリアの女にも使われています。「さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。」(39) 主イエスは、ご自分からこの女性に語りかけられました。真実に愛し合う関係をだれとも作り出すことができず、もはや自分にも他人にも絶望していたこの女性に。ところが主イエスが語りかけることによって、女はいのちの水を飲みました。そして変えられました。それまでは人目を避けて真昼に水を汲みに来ていたのに、自分から町へ行って、主イエスを証言したのです。まさにヨハネの福音書の目的はこの女性のうちに実現しました。この女性は主イエスを証言する私たち、教会の姿の先取りと見ることができるのです。人々から見下されていたこの人が、証言することばによって多くの人びとが信じたことは、大きな希望です。神さまは私たちを用いることができます。私たちがどんなに小さな、不完全な者であっても、神さまがそうなさるのです。

【いのちの喜びによって】

けれども不思議なことがあります。それはこの女が「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」(39)と言っただけで、人びとがイエスを信じたことです。私たちの経験からはあまりありそうにないことです。しかし、人びとはただことばによってのみ動かされたのではありません。彼女のことばはただ情報を伝えたのではありませんでした。そのことばにはいのちの喜びが宿っていました。彼女の様子や表情もまた主イエスが与えたいのちの喜びに満ちていたことでしょう。女の負ってきた罪と痛み、後悔と自暴自棄、それらすべてを主イエスが負ってくださいました。だから女は解放されました。その軽やかな喜びが人びとを動かしたのでした。

喜びを意識して作り出すことはできません。その人の内から湧き出るものです。私たちも証しをしなければならないから、証しをするのではありません。主イエスがていねいに、忍耐強く私たちに語りかけ、私たちを解き放つとき、喜びがあふれるのです。ありのままの自分を主イエスに差し出すこと、主イエスが見てくださっているように自分を見ること、主イエスはじっくりとそんな私たちにしてくださいます。すると、証しがあふれます。

【滞在してほしいと】

女の証言によって「信じた」(39)人びとでしたが、その信仰は最初はまだ芽のようなものでした。「それで、サマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在された。」(40)とあります。この二日間、主イエスは彼らの信仰の芽をたいせつに育ててくださいました。いのちの水を飲んだ女を見て、主イエスのところにやってきた人びとですが、彼らに主イエスがいのちの水を飲ませてくださったのです。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」(42)は、女を軽んじている言葉ではありません。「あなたが主イエスから飲んだように、私たちも主イエスからいのちの水を飲みました。この方は私たちも、罪と痛み、後悔や恐れから解き放ってくださいました。このお方を共に喜ぼうではありませんか」、そう言ったのでした。主イエスに滞在して欲しい、と願うことは、主イエスとの愛の交わりに身を置くことです。その愛の交わりが彼らの信仰の芽を成長させたのでした。

【礼拝と聖餐の中で】

イエスのもとに来たスカルの町の人びとは二日間主イエスとの愛の交わりに身を置きました。主イエスと語り合い、食事を共にしたのです。そうするうちに彼らは主イエスからいのちの水を飲みました。いのちの水である主イエスが、彼らのうちにいのちを作り出してくださったのです。

私たちも、今、礼拝の中で、特に今日は聖餐の中で、主イエスとの愛の交わりに身を置いています。こうしているうちにも信仰といのちを育てていただいているのです。

もともと教会はすべての主日の礼拝で聖餐を行ってきました。聖餐と礼拝は切り離せませんし、さらに言うなら、礼拝の中心は聖餐です。聖餐の中で、主イエスはご自分を差し出して「さあ、わたしを食べなさい。飲みなさい。わたしはいのちの水、いのちのパンだ。飲めば、生きる。食べればいのちに満たされる」とおっしゃいます。私たち人間は頭が固いですから、すぐに、どうしてぶどう汁が主イエスの血なのだろう、などと考えてつまずきます。けれども世界を創造した神は創造性に富んだお方。聖餐のたびにぶどう汁とウエハースに意味を作りだしてくださいます。それに与る私たちにいのちを作り出してくださいます。そして愛を生き、神と共に世界の回復のために働くものとして遣わしてくださるのです。主イエスを証言させてくださるのです。