2022年2月27日の説教要旨

2022年2月27日
第四主日礼拝
説教「父の子である神」
ヨハネの福音書5章9b-18節

べテスダの池で38年間病気で苦しんでいたひとを癒やした主イエス。「すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった」(9b)ので、「ユダヤ人たちは、その癒やされた人に、『今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない』と言った」(10)のでした。

【ほんとうの安息日】

ユダヤ人たちの言葉は十誡の第四誡に基づいています。「六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。」(出エジプト20:9-10)を根拠に、このユダヤ人たちが癒された病人をとがめたのでした。この人が癒されたことを祝うのであればともかく、おそらくはゴザのような敷物を持っていただけなのに、それを責めるのは、理不尽で冷酷非情です。滑稽とも言えます。

本来、律法は神の恵みによって救い出された民が、神と共に歩くための歩き方の教えです。いつも申し上げるようにまず、出エジプトそしてシナイ山です。エジプトの奴隷から解放されたイスラエルが、二度と奴隷のくびきにつながれることがないために、神さまを喜び、神さまと共に歩く歩き方を教えられたのです。ですから、病気であった人が癒され、床を取り上げて、家族や仲間のところに帰って行くことは安息日にふさわしいことです。ところがこのユダヤ人たちは、恐れの奴隷となっていました。十誡を破る、あるいは少しでも疑わしい行為をするなら、神の怒りをかうのではないか、と恐れていたのです。これは不幸なことでした。神さまというお方がいかなるお方であるのかを見失ってしまったのです。世界のすべての人に神さまを紹介する使命を与えられたイスラエルにとって、これは致命的な逸脱でした。

同じようなことは私たちにも起こります。たとえば、礼拝出席。もし私たちが礼拝に出席しなければ神さまに罰せられる、と恐れるならば、そこには喜びはありません。けれども礼拝は解放のときです。神さまが私たちを礼拝の中で解き放ってくださる。神とのわだかまり、人とのわだかまりを引き受けてくださって、私たちにほんとうの安息を、休みを与えてくださる。このことを知るならば、すすんで礼拝に行くでしょう。神さまに私たちのたましいを休ませていただけるのですから。

【見つけてくださるイエス】

この癒された人は群衆に取り囲まれたようです。「しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。」(13)囲まれている間に主イエスは立ち去られました。けれどもそれは、病が癒されればそれでよい、と思われたからではありません。主イエスはこの人のたましいをも癒し、安息を与えたいと思っておられました。しかし奇蹟に興奮した大騒ぎの中ではじっくりと語りかけることもできませんでした。  

だから後で、主イエスはこの人を見つけました。主イエスがこの人を見つけてくださったのです。救いとは何か。死んだら天国に行くことというのは、じゅうぶんではありません。救いとは、主イエスとの愛の交わりに生きること。その交わりは死を超えて、その向こう側に続くのです。主イエスはその愛の交わりの招くために、この人を見つけてくださったのでした。

「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」(14)は、この人の病が罪のせいだと言っているのではありません。聖書にそんな考えはありません。主イエスは「わたしとのこの愛の交わりにとどまりなさい」と励ましてくださっているのです。主イエスとの交わりに背を向けることが罪です。それは自分のいのちの源とのつながりを絶つことです。それが「もっと悪いこと」なのです。

【何度でも何度でも何度でも】

 けれども「その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。」(15)とあります。癒された後、この人は安息日に床を取り上げたため、ユダヤ人たちに責められました。そのとき、「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」(12)と問い詰められて、答えることができませんでした。このときの恐れは、この人を覆っていたようです。だからこの人は、ユダヤ人たちに主イエスを通報しました。「その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。」(15)のでした。これが主イエスへの迫害と殺意のきっかけになったのです。

 その通報こそ、主イエスとその愛の交わりに背を向ける罪でした。自分のいのちの源とのつながりを絶つことでした。では彼に「もっと悪いことが」起こったのでしょうか。私はそうは思いません。主イエスはこの人のこの罪のためにも十字架に架かってくださいました。そして、そのたましいに語りかけ続けてくださったにちがいありません。何度でも何度でも何度でも。

【父の子なる神】

そもそも安息日は、天地創造で完成した世界で神が人と交わるために設けてくださいました。そうでなければ、生活の不安や自己実現に駆り立てられて、際限なく働き続けるであろう私たちの弱さをあわれんでくださったのです。いちばんたいせつなこと、神さまとの愛の交わりを第一にするようにと、特別な日を造り出してくださったのです。ですから安息日は「○○をしない日、○○をしてはならない日」ではありません。「神さまと交わる日、神さまと交わることができる日」なのです。もちろん、神さまとはいつだって交わることができます。けれども安息日はそのために世界をあげて備える日です。みんなが神さまと交わることができるように社会や仕事の機能も停止したり、制限したりして整えるのです。

だから神さまは安息日にも休んでおられるわけではありません。私たちを交わりに招いておられるのです。私たちと交わってくださっているのです。

その交わりをもたらしてくださったのは主イエス。

「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」(17)と、父と子の愛の働きに応じるようにと招いたのです。これに反発したユダヤ人たちですが、彼らが見のがさなかったたいせつなことがありました。「そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。」(18)がそれです。

ユダヤ人たちの思いをはるかに超えて、ここにひとりの神が、ひとりであるのに父と子として(そして聖霊として)働いて、愛を注いでくださる神秘が語られていたのです。神の三重の愛がそこにあります。今このときもその三重の愛が私たちに注がれているのです。