2022年3月6日の説教要旨2

2022年3月6日
第一主日聖餐礼拝
説教「父なる神の子なる神」
ヨハネの福音書5章19-30節

べテスダの池で38年間病気で苦しんでいたひとを癒やした主イエス。けれども、そのことをきっかけにユダヤ人たちとは主イエスを迫害し殺意を抱きました。その彼らに対して、主イエスは「まことに、まことに、あなたがたに言います。」(19b)という言葉を持って答え始められました。「まことに」を2回繰り返すことによって「今、わたしはほんとうに真剣に語られるべき、そして真剣に受け取られるべき真理を告げる」との思いを表されたのでした。批判する者たちに真正面から向き合われたのです。

【父と子のこころ】

神とはいかなるお方であるのか。その外見や能力などは私たちにはとらえることができません。けれどもそんな私たちにもとらえ得るものがあります。それは、神がいちばんたいせつにしていることは何か、ということ。神のいちばんの関心事はなにか、神のこころの深いところに何があるのか、ということです。

新改訳聖書2017の新しい点のひとつはローマ書3章の22節に脚注が加えられたことです。本文は「すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。」となっていますが、脚注は「すなわち、イエス・キリストの真実によって、信じるすべての人に与えられる神の義です。」と下線部が異なる訳になっています。これによるなら、人が救われるのは「イエス・キリストの真実」によります。今日の聖書の個所はこのことをよく表していると思います。「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。」(19c,d)。主イエスは父が行うとおりに行う。父が行うとおりとは、この世界を、そして私たちを愛すること。主イエスは父のこころに真実です。父が私たちを愛するとおり、私たちを愛する。十字架にいたるまで私たちを愛しぬく。これが主イエスの真実です。

「また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。」(20b)ともあります。この驚くべき大きなわざとは「父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」(21)このことです。主イエスは復活し、そしてその復活のいのちが私たちにも与えられる、これがより大きな驚きのわざです。こうして主イエスの真実が私たちを救います。それが父と子のこころです。神のいちばんの関心事、神のこころのいちばん深いとことにある願いなのです。

【さばきは子に】

そんな主イエスは、ご自分に敵意を抱くユダヤ人たちに「まことに、まことに、あなたがたに言います。」(24a、25a)をとさらに二度繰り返します。そして「死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。」と宣言するのです。ここでの死人とは神に背を向け、いのちに背を向けている人のことでしょう。ユダヤ人たちは律法には熱心ですが、いのちの源である主イエスを憎んでいるのですから、いのちにつながっていません。死人なのです。そんな彼らに主イエスはしんぼう強く語り続けます。招き続けるのです。

「それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。」(23)も招きです。子を敬うというのは、はいつくばっておじぎをすることではありません。主イエスを喜び、その愛を受け入れ、父と子の愛の交わりに加わることです。もし、それをあくまで拒み続け、いのちの源に背を向け続けるなら、さばきがあります。「そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」(29)がそれです。けれどもこれは、脅かして、恐れの奴隷にして、信じさせようというのではありません。その日が来るまでに、主イエスを受け入れよ、との招き。そうでなければ、自分でさばきを選び取ることになってしまうという主イエスの嘆きなのです。

【聖餐のいのちによって】

今日はこの後、聖餐に与ります。なぜなら私たちはすでに主イエスによってさばきを免れているからです。聖餐は祝宴。主イエスの血によって勝ちとられたいのちを喜ぶ祝宴です。いのちの喜びにある私たちが父と子とが備えてくださっている祝宴に与り、ますますいのちを鮮やかにしていただくのです。

この世界は敗れています。今も、ウクライナをめぐって世界に大きな破れが生じています。このところ、礼拝の中で聖フランチェスコの祈りを祈る教会が増えています。それは世界の破れを見るときに、私たちのこころが神のこころに共振するからです。世界を惜しみ、痛みを感じる父と子とともに、私たちのこころもわななきます。それが主のいのちに生きていることの証しでもあります。聖餐の祝宴を前に、いま、ごいっしょにこの祈りを祈りましょう。そして世界の破れをとりなすことから、平和への貢献を始めましょう。主イエスの血がそのためでもあったことを覚えつつ。

聖フランチェスコの祈り

 主よ、わたしを平和の器とならせてください。

  憎しみがあるところに愛を、

  争いがあるところに赦しを、

  分裂があるところに一致を、

  疑いのあるところに信仰を、

  誤りがあるところに真理を、

  絶望があるところに希望を、

  闇あるところに光を、

  悲しみあるところに喜びを。

ああ、主よ、

慰められるよりも慰める者としてください。

  理解されるよりも理解する者に、

  愛されるよりも愛する者に。

それは、わたしたちが、

自ら与えることによって受け、

  許すことによって赦され、

  自分のからだをささげて死ぬことによって

  とこしえの命を得ることができるからである。