2022年4月10日の説教要旨

2022年4月10日
明野信愛合同棕櫚の主日礼拝
説教「光である神」
ヨハネの福音書1章1-5節

ヨハネの福音書お冒頭の部分はたいへんに内容豊かなところです。先週に続き、もう一度聴きます。

【初めにことばがあった】

1:1 初めにことばがあった。この「初めに」という単語には、「時間的に一番はやい」という意味以外にも「起源、根源、土台」と言った意味があります。この世界の起源、根源、土台は「ことば」なのです。私たちの人生の起源、根源、土台は「ことば」なのです。ことばなんかあてにならない、と思わないでください。あてにならないのは人間のことば。けれども神のことば、神の語りかけはちがいます。神のことばは世界を創造したことば。そして神のことばは主イエス。私たちのために人となって私たちの間に来てくださった主イエスが、神のことばなのです。だから神のことばは単なる口先のものではありません。だれも見たことがない愛のあらわれを、この世界に実際にもたらすことばなのです。

 私たちの人生は、このことばに起源、根源、土台を置いています。主イエスが私たちの人生の土台なのです。ある牧師は「自分の存在の底がキリストである」と言いました。どんなに私たちが落ちていっても、底より下はありません。その底でキリストが私たちを支えています。「信じたら救われる」とはよく聞かされる言葉です。それはそうなのですが、では、私たちの信仰が心もとないときは、私たちは救われていないのでしょうか。とんでもありません。だめだと思う私たちのまだ下の底にキリストはおられます。そこでだめな私たちを支えてくださっているのです。そして、主イエスに土台を置くときに、私たちの人生は変わります。目に見えるところ、意識している部分よりももっと深いところで私たちは変えられました。変えられ続けています。

【三位一体の神が】

1:2この方は、初めに神とともにおられた。ここで「この方」と呼ばれている主イエスは、神とともにおられました。「神とともに」と言われると、主イエスは神ではない、ということになりそうです。実際、教会の歴史にそのように考える人びとは常にいたのですが、ヨハネの福音書は、続けてはっきりと「ことばは神であった。」(1)と記します。主イエスは父なる神とともにおられた神。子なる神。教会は聖霊なる神をこれに加え、三位一体という言葉を、聖書から汲みだして語るようになりました。神は三なのか一なのか。どちらかに決めて納得したいのが人間の思いですが、実際に存在するものは、私たちの納得のために存在しているわけではありません。私たちの理解よりも大きな存在があり、私たちの理解よりも大きな愛があります。子なる神を私たちのために遣わされた父なる神。私たちのために遣わされてくださった子なる神。そんな愛を私たちにわからせる聖霊なる神。私たちの理解を超えた愛ゆえに、ひとりの神が、その三位の総力をあげて私たちを愛してくだっている。そんな愛を知ることが三位一体の神を知ることです。

【このいのちは人の光であった】

1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。とあります。主イエスにはいのちがあります。そして主イエスを土台とする人にはいのちが与えられているのです。ヨハネはこのいのちは光、人を照らす光だと言います。今も主イエスのいのち、主イエスの光はすべての人を照らしています。それなのに人は、光に背を向け、神に背を向けて闇を自らつくりだしてしまいます。けれども、ヨハネは続けます。

1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

そんな闇に主イエスが輝いています。神である主イエスが人となって、闇を照らすために来てくださったのです。この世界を、愛の言葉と愛のわざ、そして十字架と復活によって照らしてくださいました。神の愛のことばは主イエスにおいて、輝きの頂点に達したのでした。

闇は光に打ち勝ちませんでした。神さまに背を向ける私たちの闇に主イエスが打ち勝ってくださったのです。だから私たちは光の中を歩みます。ときには自分は信じているのだろうかと思うときもあります。闇の中にいるのでは、と。それでも光の中にいると信じて歩むのです。やがて光が感じられるときがきます。そんな私たちを通して周囲の人びともまた光に招かれていきます。光である神、主イエスがそうしてくださいます。主イエスはそのために、棕櫚の主日に、ろばにのった王として来られた神なのです。