2022年6月19日の説教要旨

2022年6月19日
第三主日父の日礼拝
説教「人の心を知る神」
ヨハネの福音書2章23-25節

先週の箇所で、過越の祭りの最中に、エルサレムで宮清め事件を起こされた主イエス。今日の箇所ではそれに続く箇所。人びとを見つめる主イエスのまなざしが、いわば内側から描かれています。そのまなざしは、もちろん愛のまなざしです。

【人の心を知る神】

主イエスは過越の祭りの間、いくつかの奇蹟を行ったようです。「多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。」(23)の「しるし」が複数形であることからそれがわかります。ところが「しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。」(24)とあります。実はこの「お任せになる」という語は、「多くの人たちが…信じた」とある語と同じ単語です。つまり、人々はイエスを信じたのですが、イエスはその人びとを信じなかったというのです。せっかく信じた人々がいるのに、主イエスはその人々を信じなかったというのです。行動を共にされようとしなかった、というのです。不思議に思えるのですが、そこにはもちろん理由がありました。

それは主イエスが「すべての人を知っていた」(24)からでした。主イエスは人の心を知る神。「人についてだれの証言も必要とされなかった」(25)とあるように私たちが自分について語る言葉よりも、あるいは、他の人が私たちについて語る言葉よりも、私たちをよくご存じです。「人のうちに何があるかを知っておられた」(25)のです。

このことは恐ろしく思えるかもしれません。けれども神さまが私たちのうちに何があるかを知っていてくださっていることは大きな慰めでもあります。私たちはときに他の人から誤解されたり、厳しい言葉で責められたりすることがあります。けれども神さまはすべての人を知っておられます。だからどんなときも私たちを支えてくださいます。あるいは私たち自身が不当に自分を責めたり、落ち込んだりすることもあります。けれども神さまは私たちを私たち自身よりもよく知っておられます。そして私たちを励まし、ご自分に結び合わせてくださるのです。

【自分をお任せに】

主イエスが知っておられたエルサレムの人々の心は底の浅い表面的な心でした。彼らは奇蹟を見て、その奇蹟によって与えられる恩恵を求めてついていきました。後に登場する五つのパンと二匹の魚によって養われた人々もそうでした。そしてそのような人々は去っていくのです。彼らには主イエスとの愛の絆を求める思いがないからです。私たちの人生に意味を与えるものは、愛の絆。神との愛の絆、人との愛の絆です。たがいをたいせつにし、自分を与え合う愛の絆こそ、主イエスが与えてくださるもっともよきもの。主イエスが、人となり、十字架で死に、イースターに復活して、ペンテコステに聖霊を与えたのは、愛の絆のためであり、それ以下のことのためではないのです。主イエスは、私たちに愛の絆をお求めになります。そしてそのようにご自身を愛する者に「自分をお任せに」なるのです。

【人の心を知る神だからこそ】

そう聞くと、私たちは思います。私は主イエスを愛しているだろうか。主イエスが私たちに「自分をお任せに」なることができるほどに、主イエスを愛してきただろうか、と。するといろいろなことが思い浮かびます。やはり自分は本当の信仰者ではない、本当の愛の絆を持たないものだとしゃがみ込んでしまいたくなります。

けれども忘れてはならないことがあります。それは、主イエスが「人のうちに何があるかを知っておられた」(25)ことです。主イエスは私たちのうちに何があるかを知っておられます。私たちが罪ある者であること、神との愛の絆、人との愛の絆を、しばしば簡単に切り離してしまう者であること、そのことを痛みながらもまた繰り返してしまうものであること、しばしば神のお心よりも自分の願いの実現を求め、そのために神と人を利用してしまう者であること、それらをみな知っておられるのです。

そして主イエスはそんな私たちのすべてを知った上で、この世界に来てくださいました。私たちをほうっておくことができなかったら。私たちを罪から解き放ち、新しいいのちを与えて、愛の絆に生きるものとするために。エルサレムでは人々にご自分をお任せにならず、人々を信じなかった主イエスを、今は私たちにご自分を、そしてご自分の使命をお任せになり、私たちと共に生きてくださっています。御霊によって。