2022年7月3日の説教要旨

2022年7月3日
第一主日礼拝
説教「天に上げられた神」
ヨハネの福音書3章11-15節

今日の箇所は、明野では去年のクリスマスにも語った箇所。クリスマスには、主の降誕の聖書箇所を語られることが多いと思います。けれども私はいつものように連続講解説教です。クリスマスであってもイースターであっても。それには理由があります。それは聖書のどの箇所にも、キリストの降誕と十字架・復活が語られているから。言い換えれば、毎週クリスマスやイースターのメッセージが語られていると言えるのです。

先週は、夜主イエスを訪ねたニコデモが、御霊によって生まれることがわからず、主イエスに叱られたところを読みました。続く今日の箇所でも、主イエスは「まことに、まことに、あなたに言います。」とたいせつなことを語りました。

【人の子も上げられなければ】

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(14-15)これがそのたいせつなことでした。ここに出てくる荒野の蛇は民数記に出てきます。荒野で座り込んでしまったイスラエル。神さまとの愛の交わりを忘れ、イスラエルを通して世界を回復するという神さまの計画も忘れてしまったイスラエル。そのイスラエルに神さまが毒蛇を送った。私の説教集「何度でも 何度でも 何度でも 愛」(民数記) にもありますが、蛇はイスラエルを滅ぼすためではありませんでした。そうではなくて、蛇によって神さまの愛に無感覚になっていたイスラエルの目が覚めた。ここまでイスラエルを守り育てきた神さまの愛に戻った。ヨハネは「永遠のいのち」と記します。永遠のいのちとは単なる不老不死ではありません。神さまと永遠の愛でかたく結び合わされて、ひとつの心で生きること。クリスマスに主イエスが来られたのは愛の交わりのため。十字架で主イエスが上げられたのもまた、私たちとの愛の交わりのためでした。永遠のいのちがただの不老不死なら、それは退屈なことかもしれません。けれども永遠のいのちに生きる主イエスとの日々は、毎日がどきどきするような喜びに満ちています。そしてその喜びは、もうすでに私たちのうちに始まっていることを、私たちは知っています。

【天から下って来た者】

「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。」(13)とあります。神さまに造られた世界は、神さまに愛され、支えられて存在しているにもかかわらず、神さまを忘れてしまっています。神さまの愛がわからなくなっているのです。神さまはそれを惜しまれます。神さまは、私たちを支配できないことを惜しんでいるのではありません。支配というなら神さまは今も私たちを支配しておられます。神さまが惜しんでおられるのは愛の交わり。私たちとの愛の交わりを回復するために、神である主イエスが天から下って来たのです。そして地上の生涯で、主イエスはありったけの愛を注いでくださいました。病を癒し、心を癒やし、飢えた者に食べさせ、愛に無感覚になっていた人びとを目覚めさせました。それは彼らもまた愛を与え合う者になるためでした。そんな愛の頂点が十字架。そこで主イエスはご自分を与え尽くされたのでした。今日は礼拝後、信愛と明野の合同役員会で聖餐を学びます。主イエスが流された血、裂かれた御からだによって私たちは永遠のいのちを贈られました。このことをますます心に刻むためです。

【わたしたちとあなたがた】

不思議なことがひとつ。今日の箇所は主イエスとニコデモとの会話です。本来なら「わたし」と「あなた」という言葉が使われるべきです。ところが主イエスは「わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。」(12)と言います。「わたしたち」と「あなたがた」という複数形が使われているのです。キリスト教会は、「わたしたち」には、主イエスと、そのからだである教会が重ね合わせて語られているのだと受け止めてきました。教会は主イエスを証しします。主イエスが開いた愛の交わりを伝えます。それでも多くの人々は信じようとしないのです。教会はそれを嘆きます。けれども絶望して証しすることをやめたりはしません。なぜなら自分たちもまた、天上のこと=永遠のいのち=神との愛の交わりなど、なにも知らなかったのに、今は天上の喜びに生きる者とされているから。この喜びが私たちを語らせます。この喜びを携えて出て行かせるのです。