2022年7月17日の説教要旨

2022年7月17日
第三主日礼拝
説教「栄えの神」
ヨハネの福音書3章22-30節

今日もヨハネから福音の喜びを聴きます。

【主イエスとバプテスマのヨハネ】

「その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。一方ヨハネも、サリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が豊かにあったからである。人々はやって来て、バプテスマを受けていた。ヨハネは、まだ投獄されていなかった。」(22-24)は、あれっ、と思うところです。例えば、マルコの福音書は「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。」(1:14)と記します。いったい主イエスの宣教はバプテスマのヨハネの宣教と、時期的に重なっていたのかどうか。ほんとうのことは今となってはわかりません。けれどもときどき申し上げますように、ヨハネの福音書には二階建ての構造があります。目に見える具体的なことがら(一階)を語りながら、目に見えない霊的なことがら(二階)を伝えるのです。この箇所でも、ヨハネの福音書の真意を聴き取りましょう。

【とまどい?ねたみ?】

このとき、バプテスマのヨハネの弟子たちは、ヨハネのところに来て「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」と。ヨハネの弟子たちの思いは想像できます。とまどい、ねたみ、そういった負の感情です。彼らは、バプテスマのヨハネと主イエスの関係についてもつかみかねているようです。主イエスがどなたであるのか、はっきりとはわかっていなかったのです。

【喜ぶヨハネ】

けれども、バプテスマのヨハネは、自分は「喜びに満ちあふれています。」(29)と言います。そして弟子たちにもその喜びを伝えようとしています。この喜びこそが、この箇所でヨハネの福音書が伝えようとしていることなのです。

「『私(バプテスマのヨハネ)はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身(バプテスマのヨハネの弟子たち)が証ししてくれます。」(28)とあるように、バプテスマのヨハネの役割は主イエスを指し示すことにあります。だから、皆が自分を離れて主イエスに行くのは、バプテスマのヨハネの本望です。それでこそ彼は使命を果たしたことになるのですから。彼は自分の弟子たちにも主イエスのもとへ行ってもらいたいのです。福音著記者ヨハネも、また、私たちに主イエスのもとへ行くようにと、主イエスを指し示しています。

【満ちあふれる喜び】

けれども、バプテスマのヨハネの喜びはそれだけではありません。さらに大きなものでした。「花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。」(29)は、バプテスマのヨハネの言葉。花婿は主イエス。そして彼は、花婿である主イエスに付き添う友人だと言うのです。ここで思い出すのは、ヨハネ15章です。「わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。」(15:14-15)と。私はよく、神さまの「お心」と「みこころ」について語ります。私たちは神さまのピンポイントの指示をもらいたい、仕事選びも、学校選びも、こまごまと間違いのない道を、と望みます。けれども、それは言われたことだけをするしもべ。主イエスは私たちに、あなたがたはそれ以上の者だ、と言ってくださいます。友は、主イエスのように、父の「お心」、つまりひとり子をお与えになった愛の「お心」を知っています。そして、命じられたかれらではなく、そうしたいから、そうすることが喜びだから、父と御子と共に、聖霊によって、自分を注ぎだします。十字架の主イエスの友だからです。復活の主イエスのいのちに与っているからです。すでにそのような主の友とされているおたがいを喜び、支え合って歩みを進めてまいりましょう。そのためにも今、聖餐にあずかり、いのちを新しくしていただきましょう。信愛教会も心を合わせます。