2022年8月14日の説教要旨

2022年8月14日
第五主日礼拝
説教「収穫の神」
ヨハネの福音書4章31-38節

スカルの井戸に現れた主イエスの恵みの三回目。主イエスが語りかけた女性は、真実に愛し合う関係に絶望していました。けれども主イエスは彼女に寄り添い、その心を包んで「その水を私に下さい」(15)というほどに回復を与えてくださいました。同時に彼女に、神を礼拝し、神と交わりたいという願いが起こしてくださいました。彼女はイエスという渇くことのない水を飲んだのでした。

【あなたがたが知らない食べ物】

ヨハネの福音書の2階建てについては何度かお話ししてきました。ここでも弟子たちは「先生、食事をしてください」(31)とか「だれかが食べる物を持って来たのだろうか。」(33)とか、目に見える食物のことを話しています。けれども主イエスは「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」(32)と、たましいに関わる言葉を語るのです。

「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。」(34)が、それです。父のみこころとわざは、すでに3章で示されています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(16-17)。世界を救うため、私たちが永遠のいのちに生き、そのいのちへと回復されていくことです。そのために神であるイエスは人となり、人として生き、十字架に架けられました。主イエスはこの父のみこころとわざによって神の子、救い主として生きました。父のみこころとわざを食物として生きたのです。

【いのちの水といのちの食べ物】

父のみこころを行い、そのわざを成し遂げることが主イエスの生きるためのいのちの食べ物でした。言い換えれば、主イエスは父との愛の絆のなかで、私たちのためにご自分を注ぎだして生きたのでした。主イエスにあって、行いと愛はひとつです。父との愛の交わりから力を得て贖いを成し遂げ、贖いを成し遂げることによって父との愛の交わりにとどまるのです。

主イエスは弟子たちを、そして私たちを、招きます。「わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。」(38)とあります。父が御子イエスを遣わされたように、主イエスも私たちを遣わされます。私たちも、父との愛の交わりから力を得て使命を成し遂げ、使命を成し遂げることによって父との愛の交わりにとどまるのです。

そんな生き方を始めてくださるのは主イエスです。サマリアの女に差し出されたいのちの水、すなわちイエスご自身が、私たちに父との交わりを与え、使命を成し遂げさせるのです。「『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。」(37)はたいせつです。種を蒔く人は主イエス。すでに主イエスの十字架によってすべての贖いは成し遂げられています。私たちはその収獲を刈り入れます。私たちは、主イエスの流された血、そうして注がれたあわれみの実を刈り入れるだけなのです。その刈り入れとは、私たちが今、身を置いている父との愛の交わりに人びとを招くことです。これはなにも、ちらしを配ることだけではありません。何よりも私たちが父との愛の交わりを喜んでいること。父の愛の中で、たがいの愛の交わりに癒されていることが、人びとへの招きなのです。

サマリアの女は主イエスに出会い、主イエスを受け入れました。主イエスといういのちの水を飲んだのです。そして自分の水がめを置いたまま町へ行き、人びとに主イエスを伝えました。その表情や言葉は喜びにはずんでいたことでしょう。人びともこの女性の変化を見たことでしょう。主イエスとの愛の交わりが、女性を満たしました。いのちの水が潤したのです。渇きをいやされて、女性は使命のために生き始めました。主イエスを喜ぶ愛を生き、見せ、そこへと招いたのです。使命を果たさなければならないと、自分に強いたのではありません。そうではなくて、主イエスとの愛の交わりに入れられた女性の最も自然な生き方は、主イエスの愛を喜び、見せ、招くことだったのです。

私たちも同じいのちの水を飲んでいます。これまでも飲んできましたし、今この礼拝でも飲んでいますし、これからも飲み続けます。そして父と子の愛に満たされ、喜び、見せ、招くのです。