2022年9月11日の説教要旨

2022年9月11日
第二主日礼拝
説教「起き上がらせる神」
ヨハネの福音書5章1-9a節

主イエスは再びエルサレムに上られました。ユダヤ人の祭りとあります。「過越の祭り」「七週の祭り」「仮庵の祭り」のどれかであったでしょう。神殿は多くの人びとでごったがえしていました。けれども神殿の北側の裏には重苦しい静けさが支配している場所がありました。裏面のエルサレムの地図を見てください。ベデスダの池がその場所です。「エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。」(2)とあります。五つの回廊を復元したのがこの絵です。長いほうの辺は二つに分かれているように見えますが、これを一つと数えると、全部で五つになるわけです。

【悲しみの池】

この池は二重の意味で悲しみの池でした。第一に「その中(五つの回廊の中)には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。」(3)です。病人や障害のある人びとがそこに大勢いました。中には三十八年も病気にかかっている人もいました。かれらのため息がこもったような場所だったのです。

 しかしこの池はもう一つの意味でも悲しみの池でした。池の水が動いたかのように見えると、いきなり争いが起こります。人びとは、他の人を押しのけたり、ひっぱったりして、われ先にと池に殺到するのです。新改訳聖書2017では4節が欠けていますが、これは印刷ミスではありません。欄外脚注にこうあります。「異本に3節後半、4節として次の一部または全部を加えるものもある。『彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いが時々この池に降りて来て、水を動かすのだが、水が動かされてから、最初に水に入った者が、どのような病気にかかっているものでも、癒されたからである。』」。つまり、人びとは先を争って最初に池に入ろうとしたのです。自分が癒されるために他の人びとを押しのける。そのたびにたがいの関係が傷ついていく、そういうもう一つの悲しみがこの池に凝っていたのでした。もちろんこれは迷信です。このように病や生涯、そして迷信による争いという二重の悲しみの池に主イエスが来てくださいました。

【主イエスのまなざし】

「そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。『良くなりたいか。』」(5-6)の「見て」は「じっと見つめて、相手の状態をしっかり理解した」という意味。主イエスはこの人の三十八年間の病とそれにともなう苦しみを理解しました。「良くなりたいか。」もありきたりの質問ではありません。この人のこころを知った主イエスが、この人の本当の願い、本当のあこがれを引き出そうとしたのでした。そんな主イエスの愛のまなざしの中でこの人のこころは開かれていきます。そして「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」(7)と答えるのです。この人の悲しみは病もさることながら、助け手がいないことにありました。それはそうでしょう。家族や友人にしても働いて生活していかなければなりません。いつ動くかわからない水をずっと眺めているわけにはいかないのです。そんなことはわかっているのですが、それでも、押し合いながら水に入っていく人びとを見るとき、世界の破れを感じるのです。こうではない生き方、こうではない世界があるはずだというあこがれを抱くのです。

私たちも世界の破れの中に生きています。コロナや自然災害、経済的な問題など。けれども何よりも私たちを最も苦しめているのは人間関係でしょう。助け合うことができないばかりか、押しのけ合い、傷つけ合ってしまう。そこには私たちの心がけが悪いといったことをはるかに超えた、世界の破れ、社会の破れ、人間関係の破れがあります。「だれも助けてくれない。だれもほんとうにはわかってくれない」というこの病人の叫びは私たちの叫びでもあります。

【起きて歩け】

 そこへ主イエスの声が響きます。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」(8) 、と。そのときこの人は立ち上がりました。主イエスはこの人に「ペテスダの池に入れてあげよう」とはおっしゃいませんでした。破れた世界のシステムのなかで、そのシステムに従って生きることを助けてあげようと言ったのではないのです。そうではなくて、「あなたはわたしのシステム、わたしのルールで歩きなさい」と言いました。「押しのけ合い、傷つけ合う生き方から、立ち上がれ。床とともにあなたの今までの生き方をたたんで、新しいいのちへと歩み出せ。」と言ったのです。

 主イエスはそのために来られました。今も私たちに、この礼拝のなかで「立ち上がれ、愛の破れをつくろう者として歩き出せ」と招いてくださっています。そうさせてくださるのは、主イエスの愛とその復活のいのちです。それらはもうすでに私たちに与えられています。