2022年9月25日の説教要旨

2022年9月25日第四主日礼拝 説教
「父なる神の子なる神」
ヨハネの福音書5章19-30節

べテスダの池で38年間病気で苦しんでいた人を癒やした主イエス。けれども、そのことをきっかけにユダヤ人たちとは主イエスを迫害し殺意を抱きました。その彼らに対して、主イエスは「まことに、まことに、あなたがたに言います。」(19b)という言葉を持って答え始められました。「まことに」を2回繰り返すことによって「今、わたしはほんとうに真剣に語られるべき、そして真剣に受け取られるべき真理を告げる」との思いを表されたのでした。批判する者たちに真正面から向き合われたのです。

【父と子のこころ】

神とはいかなるお方であるのか。その外見や能力などは私たちにはとらえることができません。けれどもそんな私たちにもとらえ得るものがあります。それは、神がいちばんたいせつにしていることは何か、ということ。神のいちばんの関心事はなにか、神のこころの深いところに何があるのか、ということです。

新改訳聖書2017の新しい点のひとつはローマ書3章の22節に脚注が加えられたことです。本文は「すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。」となっていますが、脚注は「すなわち、イエス・キリストの真実によって、信じるすべての人に与えられる神の義です。」と下線部が異なる訳になっています。これによるなら、人が救われるのは「イエス・キリストの真実」によります。今日の聖書の個所はこのことをよく表していると思います。「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。」(19c,d)。主イエスは父が行うとおりに行う。父が行うとおりとは、この世界を、そして私たちを愛すること。主イエスは父のこころに真実です。父が私たちを愛するとおり、私たちを愛する。十字架にいたるまで私たちを愛しぬく。これが主イエスの真実です。

「また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。」(20b)ともあります。この驚くべき大きなわざとは「父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」(21)このことです。主イエスは復活し、そしてその復活のいのちが私たちにも与えられる、これがより大きな驚きのわざです。こうして主イエスの真実が私たちを救います。それが父と子のこころです。神のいちばんの関心事、神のこころのいちばん深いとことにある願いなのです。

【さばきは子に】

そんな主イエスは、ご自分に敵意を抱くユダヤ人たちに「まことに、まことに、あなたがたに言います。」(24a、25a)をとさらに二度繰り返します。そして「死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。」(25)と宣言するのです。ここでの死人とは神に背を向け、いのちに背を向けている人のことでしょう。ユダヤ人たちは律法には熱心ですが、いのちの源である主イエスを憎んでいるのですから、いのちにつながっていません。死人なのです。そんな彼らに主イエスはしんぼう強く語り続けます。招き続けるのです。

「それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。」(23)も招きです。子を敬うというのは、はいつくばっておじぎをすることではありません。主イエスを喜び、その愛を受け入れ、父と子の愛の交わりに加わることです。もし、それをあくまで拒み続け、いのちの源に背を向け続けるなら、さばきがあります。「そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」(29)がそれです。けれどもこれは、脅かして、恐れの奴隷にして、信じさせようというのではありません。その日が来るまでに、主イエスを受け入れよ、との招き。そうでなければ、自分でさばきを選び取ることになってしまうという主イエスの嘆きなのです。

【世界の破れをつくろうために】

エリザベス2世が召されました。私はニュースで報じられていることしか分かりませんが、平和や人権のためにいろいろと動いた方のようです。有名なのはアパルトヘイトの南アフリカでマンデラ氏の解放のために尽力したことでしょう。

葬儀での讃美歌や聖書箇にはご本人の希望がはいっているということで、その信仰をうかがうことができるようでした。読まれた聖書は、まずⅠコリント15章20-26節、53節。キリストの復活が初穂であり、私たちは死に勝利したものとして終わりに日に新しいからだでよみがえると約束されている箇所。

 その後、詩篇42篇1-7節のことばが聖歌隊によって歌われました。「わがたましいよ なぜ おまえはうなだれているのか、私のうちで思い乱れているのか…」という有名なところ。

 そして、先日就任したばかりのリズ・トラス首相が、ヨハネによる福音書14章1-9a を美しい声で朗読しました、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」(6-7)です。

続くカンタベリー大司教による説教は、20分ほど。その中心は、女王の生き方は、「国に仕える者としての生き方であった」、そしてそれは「人々に仕えることにおけるリーダシップ」であった、と。特に印象的だったのは、「どのように生きるか」というよりも、「どなたに仕えていたか」という視点の大切さです。女王は、終生キリストに仕えるとともに国民に仕えて来たというのです。

さきほど「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(24)と聞きました。すでにいのちに移った私たちはさばきを恐れて生きるのではありません。天国へ行くことが目的ではないのです。そうではなくて、キリストのいのちを生きる私たちのこころは、世界の破れを見るときに、神のこころと共振します。世界を惜しみ、痛みを感じる父と子とともに、私たちのこころもわななきます。それが主のいのちに生きていることの証しでもあります。女王もまたそのように世界の破れをつくろうために自分を献げた人ではなかったかと思うのです。

もうひとつ。女王が召されたことが報じられた後、バッキンガム宮殿に美しい虹が見られたとのことです。友人の牧師が、聖書に親しんで英国人の感じ方を教えてくれました。それは「女王の死を悲しむように、雨が降っている。でも、神はそこに美しい虹を見せてくださった。それは神がこの世界を守っているという契約のしるしだ。神は英国と英連邦王国の王政を引き続き祝福してくださると約束してくださっているかのようだ…」と。もちろん、神の祝福の約束は英国と英連邦王国だけのものではありません。キリストのいのちを生きるすべてのキリスト者、その中には私たちもいます、を通して世界に注がれています。